瞬間移動。
彼は中学1年生の冬、自分に瞬間移動の能力があることを知った。
きっかけは、学校からの帰り道でのことだった。
突然猛烈な便意をもよおしたものの、彼が知る限りにおいて、その周囲にトイレはなく、素早い内股歩きで自分の家に向かいながら、トイレに駆け込むイメージを強く思い描いていた。
もう限界かと諦めかけたとき、彼は自分の家のトイレにいた。
困惑しつつも、パニックにならなかったのは、差し迫った危機を回避することが必要だったからだろう。
用を足し、安堵しているところで、自分が靴を履いたまま自宅のトイレにいることに意識が向いたのも束の間、今度はそのとき家にいた彼の母親が、誰もいるはずのないトイレに人の気配があることに気づいたのか、少しずつ近づいてくるの彼は察知した。
そういう意味においては妙なくらいに冷静だった彼は、土足でトイレに入っていることを母親に咎められると思い、急いで外に出ようとしたところ、一瞬にして玄関の外に出ていた。
彼が玄関の扉を開けると、ちょうど母親がトイレの前まで来たところだったので、「ただいまー。トイレ、トイレ!」と彼は母親を押し退けて、トイレに駆け込んだ。
当初の用は足していたが、新たな用を足す必要があったからだ。
土足で入ったトイレの床の汚れを拭きとり、便器の中もキレイに水で流し、彼はリビングに向かった。
自分の身に起こっている不可思議な現象に戸惑っていたところはあったが、母親の訝しむ気持ちを抑えることが先決と判断し、学校に行く途中に憔悴しきった外国人を立て続けに3人見かけた話をした。
普段通り振る舞おうとすればするほど、母親が不審がっていることに焦燥したが、特に詮索や追及されることはなかった。
母親が夕飯の準備に取りかかったタイミングで、彼は2階にある自室に行き、制服を脱ぎながら、この数十分の出来事を整理しようとしたが、結局のところ『瞬間移動』という言葉に帰着せざるを得ず、彼の脳内では肯定派と否定派が争って、それ以上話が前に進まなくなった。
そこで彼は恐る恐る、自分の部屋の向かいにある父親の書斎を頭の中で強くイメージし、中に入りたいと念じた。
書斎の扉には鍵がかけられており、中には父親の趣味である釣りに関する本や道具が置かれていて、許されたときにしか入ることができなかった。
そこに彼は入ってしまっていた。
この非科学的な能力をはっきりと自覚した彼は、呆然とした後、慌てることなく瞬間移動で自分の部屋に戻った。
そして、彼は悩んだ。
この瞬間移動の能力があれば様々なことができる、いや、できてしまう。
例えば、厳重に施錠された銀行の金庫室に入って、大金を手にすることができる。
たとえ彼が犯人だとする確証があろうとも、瞬間移動が証明されない限り、彼を法によって裁くことはできないし、身柄を拘束したとしても、瞬間移動ができる彼にとっては無意味なのだ。
つまり、ありとあらゆる罪を自由に犯すことができ、自分の欲求を叶えることができる力を彼は手にいれたのだ。
しかし、彼は非常に穏健な性格だったため、それを実行しようとは思わなかった。
次に彼は、違法な手段ではなく、商売をして大金を手にすることを考えた。
世界で唯一、瞬間的な輸送ができるのだから、間違いなく事業として成立するだろう。
もちろん、彼自身が各種情報メディアで取り上げられ、地位も名声も手に入れることができるだろう。
しかし、そんな明るい未来を思い描いたのは一瞬で、彼はまるで興奮しなかった。
彼はこの非現実的な能力について、誰にも話すことができず苦しんだ。
両親にさえ、話すことができなかった。
この厄介な力によって、関係に歪みが生じ、家族が壊れてしまうような気がしたからだ。
また彼が、社会から異常者として扱われ、隔離されたり、存在そのものを消そうとする者が現れる可能性があり、家族にも想像を絶する苦難が待ち受けているのではないかと危惧したのだ。
では、この能力を誰にも知られずに、何かに生かすことはできないかと彼は考えた。
そして、「世のため人のため、常に悪と戦いながらも、その正体は決して明かさない…」そんな映画に出てくるようなヒーローになるのはどうかと想像してみた。
確かに、やりがいのあることで、彼にしかできないことも数多くあるだろう。
今までは救えなかった命を、彼は救うことができる。
但し、その為には自己犠牲がつきまとう。
余程の精神力と体力がないとできることではない。
また、どこの誰を救えばいいのかも分からないし、映画のように都合よく悪者が登場するわけでもない。
映画は映画、だった。
その結果、瞬間移動という類いまれなる能力を生かすのはやめようと心に決めた彼は、誰にもその能力の話をすることもなく、この街のどこかで以前と変わらない生活を送っている。
たまに、トイレに瞬間移動しながら。
コメントを残す